仏の教えを信じて行じるといいましたが、
それが大事だとわかっていても、
私たちはときおり心がぐらついて、教えの軌道を
外れ、自己中心の言動に走ってしまいます。
その原因は、教えを「信じて」というところに
あるかもしれません。
「信仰はただやみくもに信ずるというのではなく、
真理にめざめて信ずる」ことだといわれます。
つまり、ただ信じればいいのが信仰ではなくて、
諸行無常や諸法無我、縁起の教えといった
「真理(真実の道理)・仏法」を学んだら、
それに照らしてものごとを見たり考えたりする
という、「智慧」に根ざした生活を送ることが、
「仏の教えを信じる」ことであり、
「信仰」なのです。
ちなみに「信心」というのは、
私たち人間が仏と同じものを具えていることを
「信じる心」のことです。
ですから、仏を信じる、釈尊を信じるというのは、
人間そのものを信じ、まわりの人の仏性を素直に
信じることを意味します。
そのように考えると、
教えを信じて行じることの基本は、
いま目の前にいる人を信じて尊ぶことに尽きる、
といえるのではないでしょうか。