仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
『正法眼蔵』
仏道を学ぶというのは、真実の自分を明らかに
することである。
真実の自分を明らかにするとは、
自己を忘れることである。
自己を忘れるとは、自分にとらわれた自分は
本来なかったということをさとることである。
自己を完全に忘れると、万法が真実の自分である
ことがつまり、自他の枠組みの執着がなくなった
ことが明らかとなる。
投稿日:2020年6月30日
仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
『正法眼蔵』
仏道を学ぶというのは、真実の自分を明らかに
することである。
真実の自分を明らかにするとは、
自己を忘れることである。
自己を忘れるとは、自分にとらわれた自分は
本来なかったということをさとることである。
自己を完全に忘れると、万法が真実の自分である
ことがつまり、自他の枠組みの執着がなくなった
ことが明らかとなる。
この記事を書いた人
関連記事